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鹿沼市立川上澄生美術館
栃木県鹿沼市睦町287-14
TEL.0289-62-8272
FAX.0289-62-8227

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川上澄生の生涯

横浜はわがふるさと

<1913年(大正2)頃の川上家の家族写真>
左より父英一郎、右前 弟の和四郎、中央 母小繁、3人おいて後 川上澄生

●横浜で生まれ、東京で育つ
 川上澄生は、1895年(明治28)4月10日、父英一郎、母小繁の長男として横浜に生を受けました。澄生が3歳のときに、一家は東京へ移り住みます。初めて木版画を制作したのは1912年(明治45)のこと。木下杢太郎の戯曲『和泉屋染物店』の木版刷りの口絵を見て、見様見真似で制作しました。

●カナダ、アラスカでの生活
 1915年(大正4)、澄生が20歳のときに母小繁が亡くなり、澄生は一ヶ月間学校を休むほど落胆しました。2年後、父から「カナダへ行く気はないか」と声をかけられます。母の死、そして自身の失恋に心を痛めていた澄生は、渡航を決意します。そして若干22歳で横浜港からカナダ・ヴィクトリアへと渡りました。4ヶ月間カナダで過ごした後、職を求めてアラスカへ向かいます。アラスカでは鮭缶詰工場の人夫として働きますが、1918年(大正7)、弟和四郎危篤との知らせを受け、急遽帰国します。

●宇都宮中学校へ赴任
 澄生は帰国すると、父から和四郎が亡くなったことを知らされます。帰国後の澄生は看板の図案を描いたり、商店での仕事を経て、1921年(大正10)栃木県立宇都宮中学校(現 宇都宮高等学校)の教師となり、昼間は英語の先生、夕方は野球部の指導をすることになりました。本格的な木版画の制作は、この頃から始まります。

宇都宮のへっぽこ先生

<宇都宮中学校時代の川上澄生>

●《初夏の風》を制作
 澄生は、宇都宮中学校時代に勤務してから本格的に木版画の制作を始めます。代表作として《初夏の風》が挙げられるでしょう。エメラルドグリーンの明るくて優しい色使い。女性の周りを、人のかたちをした風が舞っています。澄生はかなわない恋の想いを版画に託しました。油絵を学ぶために上京していた棟方志功が版画を制作するきっかけとなた作品として知られています。

●宇都宮中学校にて
 澄生は生徒たちから「ハリさん」とあだ名をつけられていました。由来は髪の毛がハリネズミのようだったからだそうです。一方澄生自身は『ゑげれすいろは人物』(1935年)のなかで自らを「へっぽこ先生」と称しています。「ハリさん」と「へっぽこ先生」。どちらにしろ、親しみのある名前ですね。

●版画誌のアドバイザー
 明治の終わり頃から、日本では創作版画運動が盛んでした。創作版画とは、自分で絵を考えて、彫り、刷ってできた版画のことです。その運動の中で、各地に版画誌が生まれました。版画誌は作品を本の台紙に張り込んだ体裁です。持ち運びも手軽なので、版画運動を広めるのに有効な手段の1つでした。栃木県においては『村の版画』と『刀』が創刊されました。『村の版画』は姿川村の教師が、一方の『刀』は澄生の教え子たちが中心となり、澄生はいつもこれらの版画誌に作品を寄せました。

●北海道への疎開
 1938年(昭和13)に澄生は結婚し、翌年には長男が誕生します。順風満帆の川上家でしたが、1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まると澄生は軍国主義に嫌気が差して宇都宮中学校を退職します。そして、1945年(昭和20)3月に妻の実家である北海道へ疎開しました。

南蛮と文明開化の世界

<版画を確認する澄生>

●北海道での生活
 北海道では、苫小牧中学校の講師をしながら版画制作を続けます。主なモチーフはアイヌ風俗やサイロのある風景、樽前山などです。また「あいのもしり」や「えぞがしま」などの絵本も多数制作しました。物資が少なく、不自由な時代でありながらも、澄生は常に好奇心を失わず、前向きに版画制作に取り組みました。

●再び宇都宮へ
 1949年(昭和24)澄生は宇都宮へ戻り、同年栃木県立宇都宮女子高等学校の講師となります。1951年(昭和26)には宇都宮女子高等学校の先生と生徒の有志が集まり、版画誌『鈍刀』が始まりました。澄生は会長となり、亡くなる直前まで作品の投稿を続けます。

●南蛮と文明開化
 戦後、澄生は一貫して南蛮と文明開化をテーマとした作品を制作します。南蛮では煙草を吹かす南蛮人や色とりどりの華やかな南蛮船が描かれています。なかでも蛮船入津と呼ばれる画題を澄生は好みました。港に着いた船から、乗客や髭徳利や壺などが下ろされる様子です。「やらやらやっとつきました」と澄生は長旅の船員たちにねぎらいの言葉をかけています。文明開化をテーマとした作品では、明治初期の横浜海岸通り、着物姿の女性、洋燈が観られます。横浜は貿易港で文明開化の入り口であっただけでなく、澄生にとって故郷でしたので、個人的な思い入れもあったのでしょう。また、着物姿の女性や洋燈も澄生にとっては忘れられない少年時代の思い出でした。洋燈と一言で言っても、台洋燈、吊洋燈などいろいろな種類があり、澄生は余すことなく、その魅力を伝えています。

晩年の川上澄生

<晩年の川上澄生>

●晩年の川上澄生
 1967年(昭和42)澄生は勲四等瑞宝章を受章します。すでに72歳を迎えましたが、創作の意欲が衰えることはありませんでした。1971年(昭和46)には静岡方面へ旅行し、河口湖で遊んだり、富士山をスケッチしています。しかし、翌年の1972年(昭和47)4月最愛の妻が亡くなります。澄生は、その後を追うように同年9月心筋梗塞で急逝しました。享年77歳でした。
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